plusnineのブログ

自分の趣味に関する話を書いていきます。メンエス体験をメインに他の話も。

波瀾万丈の人生〜サッカー選手 岡野雅行〜



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自分はサッカーが好きで。




10代の頃からチームに入ってずっとやっていました。そんな、自分が昔から好きな選手がいます。






「野人」の愛称で知られる、岡野雅行。

Jリーグの浦和レッズやヴィッセル神戸などでプレーした、元日本代表のFWです。





現在は鳥取に本拠地を置くクラブチーム、ガイナーレ鳥取で代表取締役GMを務めています。








サッカーが好きな人であれば岡野の名前は聞いた事があると思います。日本が初めて出場権を獲得した、フランスワールドカップでの最終予選。マレーシアのジョホールバルでの決勝Vゴールを決め、長髪をなびかせながら興奮してピッチを走り回っていたシーンは見覚えあるかと。




決勝Vゴールを決めてピッチを走る岡野






岡野のイメージは...




恐らく皆が思う事ですが

「足が異常に速い、だけど下手でシュートも外す」

という印象だと思います。




実際ジョホールバルでのゴールの際も、中田英寿がゴール前までドリブルで持ち込み、横にフリーで岡野がいたのに無視して自分でシュート。それをキーパーがはじいた所に、岡野が飛び込んで決めたものでした。







自分は一芸に秀でていて、それに全てをかけて勝負する選手が好きです。




足も遅く、ドリブルもそこまで上手くないながら、正確無比な左脚のキックだけでスペイン代表まで上り詰めたデ・ペドロ。




体格に恵まれたわけでも足が人より速いわけでも無い。ただゴールへの嗅覚だけを頼りに、長年セリエAのトップチームでゴールを量産し続けたF・インザーキ。




賛否両論あるとは思いますが、岡野もこれに近いスタイルではあるかと。当時のサッカーゲームなどでも岡野はスピードは速いもののシュートの能力値が低く設定されていて、使いにくいプレーヤーだったと記憶しています笑






そんな岡野ですが、プロサッカー選手になる前。またサッカー選手としての歩みもホントに波瀾万丈な経験をしています。特に高校時代の話はドラマ化されたほど奇跡的な話です。





まあ、とりあえずは知らない方のためにまとめて書いてみたいと思います。






幼少期〜高校入学の経緯






岡野は横浜市出身で、元々は女の子に混じってテニスをやっていたようです。ただ、女の子ばかりと遊ぶ岡野の事を親は心配し、サッカークラブに入るように勧めます。いやいやながらもサッカーを始めた岡野少年。ただ、元々足が速かった彼はどんどん才能を発揮して横浜選抜に選ばれるほどになります。




しかし中学生になると、成長期が遅く、背が小さかった岡野はサッカープレーヤーとしては目立たなくなっていきます。当時の三浦カズに影響されてブラジル留学も考えますが、親の反対にあって断念。勉強も出来なかった岡野には高校の選択肢があまり無く困っていると、叔父がある話を持ってきます。




たまたま仕事絡みで知った島根の高校がかなり良かった、と。全寮制だけど規律正しく、立派な生徒達だったと。特に島根は高校数が少ないから、全国に出るチャンスもあるんじゃないか?と提案されます。






神奈川では選べる高校もほとんどなかった岡野は、島根県の松江日本大学高校への進学を決意します。







ここから岡野の奇跡の物語が始まります。








とんでもない高校






入学式に出席した岡野の目に飛び込んできたのは、衝撃的な光景でした。






学生達のほとんどが、暴走族がよく着用している特攻服で入学式に参加していたのです。





あとでわかった話ですが。どうやら当時のその高校、全国の選りすぐりのヤンキー達が集まっていたようです。ようするに普通に勉強が出来ない不良達が集められ、そして全寮制の生活を通して更生させていくという目的の高校だったのです。叔父が見たのは更生させられた後の生徒達を見ていたので、良い学校と感じていただけでした。






しかも...よくよく聞いてみると、なんとサッカー部もないという。






勉強は確かに出来なかったものの、特に不良なわけでもない岡野。さすがに意味がないと感じ、理事長の元に退学の意思を伝えに行ったそうです。





「自分は元々サッカーをやりたくてきたのにこれでは...」と。






しかし理事長は意外な言葉を発します。






「サッカー部ありますよ?」




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サッカー部?






よくよく聞いてみると体育館の裏で活動している、という。そんなの見たことないと思いながら体育館の裏に向かうとそこには...。







一人だけユニフォームを着て壁にボールを蹴っている人がいたのです。







驚いた岡野は思わず声を掛ける。




「サッカー部...の方ですか?」





ユニフォームを着ていた先輩は頷く。







「良かった!サッカー部あったんですね!部員は何人ぐらいいるんですか?」






その質問に対して先輩は



「あー。俺一人なんだよ」





よくよく聞いてみると。その先輩も同じくサッカー部に入りたくて来たものの、学校に入ったらサッカー部が無い。なので仕方なく一人でサッカー部、というテイで一年間壁を相手にボールを蹴っていたという。





複雑な感情になりながらも、とりあえずはサッカーをやりたい人がいたということに安心した岡野。先輩と二人で話し合い、とりあえずは部員を集めることが何より先決ですね、ということに。





意外にも募集を掛けたらあっというまに人数は集まった。しかし...。中には昔サッカーやってたことあるよ、という人もいたものの、ほとんどはサッカー未経験者たち。しかも全国から集められたエリートヤンキー達。人なら蹴ったことはあるけどボールを蹴ったことは無い、と。




本格的なサッカー経験者だった岡野自身が一年生ながらキャプテンになり、練習メニューから全てを考えます。当然ど素人のようなヤンキー部員たちは最初は酷いものだったようです。ただヤンキー部員たちは意外にもサッカーは楽しいようで、皆積極的に練習に参加してくれました。





ある程度技術が備わったところで、せっかくなら一度試合をしてみたい、ということになりました。さっそく様々な高校に顧問の先生を通して連絡をしてみます。しかし...岡野の高校はヤンキー高校として有名。先輩達は更生したように見えても、中身は元々不良としてあつまった生徒達。当然ほとんどの高校で断られてしまいました。







それでもようやく、練習試合を受け入れてくれた高校が見つかりました。そこでこちらから遠征に伺うことになり、部員全員で相手高に向かうと...。







岡野本人の言葉では「まさに映画クローズの鈴蘭高校みたいな学校でした。壁にはスプレー缶で落書きされ、窓という窓はほとんど割れていて、ド派手な頭をした不良達が校舎の中からこちらを見ていました。」






しかもグラウンドに向かうと...

制服をきた不良達がボールを蹴って遊んでいる。対戦相手のサッカー部はどこにいるんだろうと不安になりながらアップします。






時間になりグラウンドに整列すると、向かいには...先程遊んでいた不良たちが目の前に並びました。不安が的中して絶望する岡野。ふと横を見るとチームメイトの先輩達は、ニヤニヤしながら目を輝かせている。






ホイッスルが鳴り試合開始。






試合開始と同時に、全力で対戦相手に飛びかかる先輩たち。それを見た校舎に残っていた相手高の不良達も「なんじゃコラぁ!!」の怒号と共にグラウンドに飛び出してきます。グラウンドにて大乱闘が始まり、そこかしこで怒声と殴り合う音が響きます。






人数的には圧倒的に不利なはずが...さすがは全国からの選りすぐりのヤンキーをあつめた松江日本大学高校。喧嘩はメチャクチャ強い。勝ったぞー!!の掛け声で岡野は我に返りあたりを見回すと...グラウンドでバタバタ倒れていたのは相手高の不良たち。その周りで喜びはしゃぐ先輩たち。グラウンドで全く動いてなかったのは、岡野とその足元にあったサッカーボールだけでした。






母校に帰り部室。先輩達の前で岡野は号泣したそうです。

「こんなんじゃないですサッカーは。もうサッカー部も学校も僕はやめます!」

そう言って岡野は部室を飛び出します。






その翌日。







岡野は先輩たちに呼び出されます。

その時岡野が思ったのは

「ヤバい...シメられる...。」

お前がサッカー部つくるって言うから入ってやったのにどういうことだよ、と。






部室に入るとそこには先輩達が並んでいました。

すると先輩達は...




「申し訳なかった!!もう二度とあんなことはしないから、もう一度サッカーを教えてくれないか!」





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強豪高への道






先輩達と和解し再び練習に明け暮れる毎日。先輩達は元々ヤンキー根性があったからなのか、どんなキツイ練習でも絶対に皆投げ出すことなく最後までやり遂げたそうです。全寮制で他にやることもなく全てをサッカーに集中した部員たちは急速に技術が身についていきます。






例の乱闘試合の次。最初からちゃんとサッカーを出来た試合のスコアは0-22。次が0-15。もちろん高校生とはいえサッカー経験者で部活をやっていた人とは大きな差がありました。






それでも。プレー中に激しく身体が接触し、イライラする場面になっても先輩達は必死に我慢し気持ちを押し殺していたそうです。そんな部員たちは徐々にサッカープレーヤーとして進歩していきます。





練習試合の結果

0-10

次の試合が

0-8

次の試合が

0-5

次の試合が

0-2


そして

0-0


点は取れませんでしたが、初めて負けなかった試合。ただの練習試合でしたが皆で号泣したそうです。




岡野本人曰く

「とにかくみんな上手くなるスピードが早かった。根性があるからどんな事言っても断らないし、どんな辛い練習でも絶対にやり遂げる。皆が毎晩22時ぐらいまでボールを蹴ってて」

と。




その結果。






春には人しか蹴った事がない、と言っていた即席不良サッカー部は一年目の最後の新人戦。県大会のベスト4にまで食い込んだそうです。







本人も言ってますが、ホントにマンガみたいな話だよね、と。





その事が学校から評価されて次の年からはサッカー部に専属の監督が付き、部員が専用の寮が与えられるようになりました。






その後の松江日本大学高校ですが...

今は立正大学淞南高等学校と名前が変わりましたが


サッカーの強豪校になり、高校サッカー選手権大会の常連校になっています。高校のWikipediaを見ると...


特にサッカー・野球部・マーチングバンド部・射撃部が盛んで、1988年に当時1年生の岡野雅行が旧松江日本大学高等学校時代にサッカー部を立ち上げ、キャプテン兼監督を務めて以来頭角を現したサッカー部は1996年の第75回全国高等学校サッカー選手権大会に初出場し、以後は全国高等学校サッカー選手権大会の常連校でもある。


と、あります。





今ではサッカーだけではなく複数のプロ選手を排出するスポーツ強豪校になっています。








こうドラマ仕立てで書いてみると、客観的に見て面白い話なのですが。岡野本人はとにかく我慢で耐え忍んだ時期だったと振り返っています。一年生の時はホントに毎日泣いていた、と。







ただこの時の経験がこの後のサッカー人生全てに役立っているとも言っています。このあとも岡野は様々なエピソードがあるのでまた続きを書きたいと思います。




ではまた。








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久々に...


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しばらく時間が空いてしまいました...




仕事の忙しさ以上にネタ切れの感が否めず笑



毎日投稿はかなりしんどかったです。

これからは思いついた時に時々の投稿になると思います。良ければお付き合い下さいませ笑





久々に書こうと思ったのは、昨日久々に昔仲良かったセラピストから連絡があったからです。




お互いに何をしてるのかの近況報告と、あとは昨日来たお客さんの愚痴を聞かされました。





初めてのお客さんで、最初は対応も紳士的で大人しかったものの...途中から暴走し始めて、タッチが多かったとのこと。最後は抱きつかれてキスをしようとしてきた所でキツく叱って時間が終了。




出禁にするまではいかないけど、他の子にも同じ様にしたら可哀想なのでお店に報告しといた、と言ってました。




まあ。

最近は過激なお店が増えたのでそれでも許容されると感じるお客さんは多いのかもしれないですね。




ただ。

そういう風に店に報告が行き、要注意客と認定されてしまったら...。次からはまともな施術は受けられないと思うんですよね。お客さん本人にとってもマイナスじゃないかと。





という話をしていたらある事を思い出したので、今日はそれを書いてみようと思います。






数年前の、ある店のセラピストのお話です。





その店は容姿端麗な20代の女の子を集めた店で、健全ではあるものの、美人が多いと人気があった店舗でした。



自分が仲良くなったのは22才の大学生。数回飲みに行った程度でしたが、よくLINEでお店の愚痴、仕事の愚痴を聞いていた子でした。




ある時にその子(仮にミカちゃんとします。)からLINEが。




「今日大変な事があったから聞いて欲しい」

と。




仕事の都合で出勤時間には行けなかったので、仕事終わりに飲みにいく事に。19時ごろに居酒屋で待ち合わせて合流。ビールを一気に飲み干したミカちゃんはゆっくりと話し始めました。




その日の出勤中、新規のお客さんから写真指名で予約入ったそうです。それはまぁよくある事なので、準備していると時間より少し早くお客さん来店。




基本的にメンエスは数分でも早く行く事は厳禁です。時間通りの来店が求められるのですが...。




まあ準備も終わっていたので対応して部屋へ案内しました。見た目は普通の50代ぐらいのサラリーマンっぽい男性。ただとにかくしゃべらない。挨拶をしても軽く会釈をするだけで口は開かないようでした。





なんか怖いな...と思いながらシャワーしてもらい、施術開始。施術中も一応、「今日はお仕事ですか?」「強さはいかがですか?」等質問してみるのですが、ボソっと「ハイ...」とか「大丈夫です...」といった返事しか返ってこない。




お話が苦手な人なのかな?と思い施術を続ける。確かにそういう方もいらっしゃるので、特に意識しなかったよう。施術中も触ってきたり、イタズラしてくることもなくずっと大人しかったようでした。




結局そのまま施術終了。寝てるのかと思い「お客様?これで施術終わりになります、シャワーの準備をしてきますので少しそのままでお待ちください」と声を掛ける。すると起きていたようで、立ちあがろうとする。急いでホットタオルを取りに行き、滑ると危ないので足についたオイルを良かったら拭いて下さい、とタオルを渡そうとする。






その時。






急にお客さんがミカちゃんにつかみかかり壁に押し付ける。壁ドンのような体勢になり、そのままキスをしてきました。





いきなりのことでビックリしてされるがままだったようですが、ようやく我に返り「やめて下さい!」とお客さんを跳ね除けたそうです。急いで緊急ボタン(SECOM等の警備会社に繋がるボタンなのか、またはダミーで音が鳴るだけなのかわからないけど、そういうボタンがあったようでした)を押すと「ピー、ピー、ピー」と警報音が部屋に鳴り響きました。





それにびっくりしたのかお客さんは、いそいで自分の服とカバンをひっ掴んでドアを空けて飛び出して行ったそうです。




とりあえず助かった...と思い警報ボタンを止めてオーナーに連絡。急いで向かうからカギを閉める様に言われ、そこでとりあえず落ち着けたようです。





怖かったものの、落ちついて冷静に考えてみたら...。あの客、ヒモTバックだけのオイルまみれのほぼ裸で出てったけど...。





ちなみにそこのお部屋。メンエスには珍しくアパートの一室で営業してました。しかも片側三車線の大通りに面しており、玄関ドアを開けたら道路から丸見えの状態。





思わずミカちゃんはドアを開けて外を見ると...アパートの外部廊下の床にはオイルの足跡がずっと...。その状況を考えてみると、キスされてしまったショックよりも笑いが込み上げてきてしまったらしく爆笑。





ほぼ全裸で飛び出して行ったけどあの後客はどうしたんだろう、と考えているとチャイムが鳴ってオーナーが到着。心配しているオーナーをよそにミカちゃんは笑いが止まらない。




ようやく落ちついてオーナーに事情を話すと、笑い事じゃないよと苦笑い。ただオーナーも半裸で逃げたお客さんは見なかったらしく、いったいどこに行ったのか。




とりあえずお金は貰ってるし、ミカちゃんがそれで良いなら何もお客さんには追求しないけど、店としては出禁にするから、とのこと。




ミカちゃんとしてはキスされてしまった嫌な思いと、その後のお客さんの行動がツボだったようで、ショックなようで笑えるし...と複雑な感情になり、どうしても誰かに話したくなった、と。それで俺に連絡してきたらしい。



まぁ俺としては面白い話も聞けたし楽しかったのだけど。正直キスで止まってよかったけど、そんな暴走するやつだと何するかわからなかったから怖いよね、と話して終わりました。




なんだかねぇ。まぁ暴走しちゃう時って後先考えられなくなるんだろうけど。自分のやった行動の対価は払わないといけないですよね。半裸で繁華街の大通りに出てしまったらと考えるとゾッとします笑




とりあえずこんな話でした。

またゆっくり書いていきます。





ではまた。





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またまた雑談〜海の武士道・工藤俊作中佐の話


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皆さまは「武士道」と聞いたらどんなイメージを持たれるでしょうか?



宮本武蔵のような、剣の道に生きた孤高の天才のイメージでしょうか?



強きを求め弱きを助ける武人のイメージでしょうか?




goo辞書を検索するとこうありました。


日本の武士階級に発達した道徳。鎌倉時代から発達し、江戸時代に儒学思想と結合して完成した。忠誠・勇敢・犠牲・信義・廉恥・礼節・名誉・質素・情愛などを尊重した。士道。」


こう見ると、結構色々な事を求められてるんですねw





宮沢賢治の「アメニモマケズ」にも通じた物があるように思います。恐らく日本人の心に根差した人としての理想像のようなものなのかと感じます。






そこで本題ですが。



第二次大戦中の日本の軍人にこの精神を体現し、まわりに多くの影響をもたらした人がいました。





それが、海軍に所属していた「工藤俊作中佐」です。



     工藤俊作中佐





でも多分。

この名前を知る日本人は少ないのではないでしょうか?





最近になってテレビで扱われたりで徐々に功績が明らかになってきていますが、それでも認知度は低いかと。それでも彼の行ったことは後世に語り継がれるべき事だと思います。本日はそのことを書きたいと思います。







第二次対戦中、工藤は駆逐艦「雷(イカヅチ)」の館長として指揮を取っていました。





1942年2月、ジャワ島北東のスラバヤ沖にて日本海軍とイギリス海軍の戦闘が勃発。その際に重巡洋艦エクセターとイギリスの駆逐艦「エンカウンター」が攻撃を受けて沈没。乗組員約400人以上の人が海に投げ出されました。




危険な戦闘海域で救助も来ず、24時間ほど彼らは海をただよい続けます。そんな中で彼らの前に現れたのは...。




日本の駆逐艦「雷」でした。当時のイギリス兵の日本人に対するイメージは野蛮で残酷な人間、という印象だったようです。海にただよう敵兵を機銃掃射で皆殺しにしかねない、と本気で考え絶望したそうです。






そんな中...。


雷の艦上にかかげられたのは「国際救助信号旗」の旗。工藤艦長の命令の元、次々にイギリス兵は救助されていきました。救助は一日中続き、結果422名のイギリス兵が雷に救助されました。しかも。ただ艦上に引き上げただけでなく、貴重な燃料を使ってお湯を沸かして彼らの身体をふき、衣服や食料を分け与えました。



命からがら救助され一息ついたイギリス兵の前に一人の男が現れました。そう、工藤艦長です。彼らを前にして工藤はこう言ったそうです。



「You have fought bravely(貴官らは勇敢に戦われた).

Now, you are the guests of the Imperial Japanese Navy! (いま、貴官らは日本帝国海軍のゲストである!)」



その翌日イギリス兵はオランダ籍の病院船「オプテンノール」に引き渡されたそうです。



素晴らしい美談ではないでしょうか?




たまたま通りがかって救助しただけ?今では当たり前?...と思われますか?


何度もいいますが、これは戦争中の出来事です。しかもそこは戦闘海域だったため、いくら救出旗を掲げていようが攻撃されたら無抵抗になります。また自らの燃料や食糧を使ったため、救出後に戦闘になった場合はかなり不利になります。



また、雷の乗組員は220名だったので、倍近い敵兵を救助しました。ちなみに艦長伝令を勤めた佐々木確治一等水兵は『おい伝令、もしも彼らに反乱を起こされれば、命取りになるなぁ。背は高いし、力は強いし、どこを壊されても大変だなぁ!』と工藤からブラックジョークを聞かされていました。



つまり。この工藤の決断はかなりの危険と犠牲を伴うものだったのです。





...なんとなく。私たちがイメージする戦争中の軍人のイメージとかけ離れているような気がします。


ただこれは当時の海軍の訓示、また工藤の人柄によるものも大きかったようです。



当時の海軍のエリートである海軍兵学校。工藤が入学した時の校長が鈴木貫太郎。後の第42代内閣総理大臣です。この鈴木の教えこそ武士道精神に基づくものでした。「士官たるもの紳士であれ」のモットーの元、鉄拳制裁を禁じ、学問だけでなく哲学や芸術などの文化的要素も養いました。


この教えを受けた工藤を含む51期生たちが当時の海軍の中核をなしていました。その教えは海軍に行き渡っていたようです。事実、工藤が救助を行った際に僚艦の「いなづま」と「ゆきかぜ」も、それぞれ連合国側の兵士370名、40名を救助しています。



また工藤自身の人柄もまさに武士道を体現するものでした。身長180センチの95キロで、柔道有段者。ただ性格は周囲から「大仏」と呼ばれるほど温厚で人情味溢れる人物でした。工藤のエピソードは実は多々あるのですがそのいくつかを...


・雷の着任時に「本日より本艦は私的制裁を禁止する。特に鉄拳制裁は厳禁する」と兵学校時代の精神をここでも表していました。また、日頃から士官、下士官に対し、「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱ってはならない」と口癖のように言っていたといいます。見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違って報告した時も「その注意力は立派だ」と逆に誉めたそう。


海軍艦船では士官食堂と兵員食堂とでは食事の内容がかなり違っていました。もともとサンマ、イワシなどの光り物が好きな工藤中佐は、士官食堂で出たエビや肉料理を皿ごと持って、草履をパタパタさせながら兵員食堂にやってきて「おーい、誰か交換せんか」と言ったというのです。艦長といったら水兵たちにとっては雲の上の存在であったので、このような型破りの行為は他の艦船ではありえない話でした。


兵の家庭が困窮している事情を耳にすると、下士官に命じて、その兵が家庭に送る送金袋にそうっと、自分の俸給の一部を差し入れたという。



このように工藤は人を引きつける魅力的な人物でした。事実、戦争末期の殺伐とした状況の中でも工藤の周りだけはファミリー的な雰囲気が漂っていたそうです。



でもこれだけ聞くと、ただ温厚な人物だったように聞こえますが...。海軍のエリートらしく戦闘指揮能力も凄まじいものがありました。雷は工藤が着任中、敵潜水艦から5回の雷撃(魚雷ミサイルによる攻撃)を受けていますが、全て回避。またその内3回は反撃して相手を撃沈させています。


じゃあこの雷がすごい性能があったかというと...そうではありません。工藤は後に体調を崩し雷を降りることになるのですが、その少し後に雷は戦闘で攻撃を受け沈没してしまっているのです。



まさに、能力に長け、勇気を持ち、温厚で弱きを助ける。武士道の精神を体現した人物だったのではないでしょうか。


それは雷の乗組員にも影響を与えていました。イギリス兵の救出は、一兵士から見ても危険な事とはすぐわかりました。それでも全乗組員が共通して工藤の意識通りに動いていました。


救出時にも兵士たちはイギリス兵に必死で声を掛け、自ら海に飛び込み救助する者もいました。まさに工藤の精神が兵士たちに伝播していったと言えます。




さて。ここで疑問なのが。

これだけの話がなぜ今あまり知られていなかったのでしょうか?



それは恐らく。戦時中に敵兵を助けるなどけしからん!という軍部の考え。または戦後の日本が悪かったの印象を強くさせるためのプロパガンダによるものかと。



それがなぜ近年この事実が明らかにされたのか。それはある英国人の働きによるものでした。


それは、雷に救助された兵士の一人だったサムエル・フォール氏のある投書がきっかけでした。


1998年、英国では日本の天皇陛下の英国訪問に対する反対デモが激化していました。反日運動を憂えたフォール氏は、かつて経験した救出劇の顛末を「タイムズ(4月29日付け)」に投稿しました。この記事が英国人の意識を変え、反日運動は沈静化していったといいます。逆にこの事が日本でも知られてようやく広まっていったのです。


またフォール氏は工藤にお礼を言いたいと行方を探していました。しかし残念ながら工藤は1979年に胃がんにて亡くなっていました。2007年にフォール氏は来日して工藤の墓に訪れています。身内でさえこの工藤の話は知らなかったらしく、フォール氏から話を初めて聞いた甥が「叔父がそんなことを...」と涙したそうです。



工藤の墓に献花するフォール氏







武士道、と聞くと古臭いと感じますか?確かに会社の訓示として「武士道精神を忘れずに...」とあったらヤバい会社かと思われてしまうかもしれませんw





でも。その奥底にある精神は日本人にとって忘れてはならない心なのではないかと思います。





ではまた。




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