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またまた雑談〜海の武士道・工藤俊作中佐の話


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皆さまは「武士道」と聞いたらどんなイメージを持たれるでしょうか?



宮本武蔵のような、剣の道に生きた孤高の天才のイメージでしょうか?



強きを求め弱きを助ける武人のイメージでしょうか?




goo辞書を検索するとこうありました。


日本の武士階級に発達した道徳。鎌倉時代から発達し、江戸時代に儒学思想と結合して完成した。忠誠・勇敢・犠牲・信義・廉恥・礼節・名誉・質素・情愛などを尊重した。士道。」


こう見ると、結構色々な事を求められてるんですねw





宮沢賢治の「アメニモマケズ」にも通じた物があるように思います。恐らく日本人の心に根差した人としての理想像のようなものなのかと感じます。






そこで本題ですが。



第二次大戦中の日本の軍人にこの精神を体現し、まわりに多くの影響をもたらした人がいました。





それが、海軍に所属していた「工藤俊作中佐」です。



     工藤俊作中佐





でも多分。

この名前を知る日本人は少ないのではないでしょうか?





最近になってテレビで扱われたりで徐々に功績が明らかになってきていますが、それでも認知度は低いかと。それでも彼の行ったことは後世に語り継がれるべき事だと思います。本日はそのことを書きたいと思います。







第二次対戦中、工藤は駆逐艦「雷(イカヅチ)」の館長として指揮を取っていました。





1942年2月、ジャワ島北東のスラバヤ沖にて日本海軍とイギリス海軍の戦闘が勃発。その際に重巡洋艦エクセターとイギリスの駆逐艦「エンカウンター」が攻撃を受けて沈没。乗組員約400人以上の人が海に投げ出されました。




危険な戦闘海域で救助も来ず、24時間ほど彼らは海をただよい続けます。そんな中で彼らの前に現れたのは...。




日本の駆逐艦「雷」でした。当時のイギリス兵の日本人に対するイメージは野蛮で残酷な人間、という印象だったようです。海にただよう敵兵を機銃掃射で皆殺しにしかねない、と本気で考え絶望したそうです。






そんな中...。


雷の艦上にかかげられたのは「国際救助信号旗」の旗。工藤艦長の命令の元、次々にイギリス兵は救助されていきました。救助は一日中続き、結果422名のイギリス兵が雷に救助されました。しかも。ただ艦上に引き上げただけでなく、貴重な燃料を使ってお湯を沸かして彼らの身体をふき、衣服や食料を分け与えました。



命からがら救助され一息ついたイギリス兵の前に一人の男が現れました。そう、工藤艦長です。彼らを前にして工藤はこう言ったそうです。



「You have fought bravely(貴官らは勇敢に戦われた).

Now, you are the guests of the Imperial Japanese Navy! (いま、貴官らは日本帝国海軍のゲストである!)」



その翌日イギリス兵はオランダ籍の病院船「オプテンノール」に引き渡されたそうです。



素晴らしい美談ではないでしょうか?




たまたま通りがかって救助しただけ?今では当たり前?...と思われますか?


何度もいいますが、これは戦争中の出来事です。しかもそこは戦闘海域だったため、いくら救出旗を掲げていようが攻撃されたら無抵抗になります。また自らの燃料や食糧を使ったため、救出後に戦闘になった場合はかなり不利になります。



また、雷の乗組員は220名だったので、倍近い敵兵を救助しました。ちなみに艦長伝令を勤めた佐々木確治一等水兵は『おい伝令、もしも彼らに反乱を起こされれば、命取りになるなぁ。背は高いし、力は強いし、どこを壊されても大変だなぁ!』と工藤からブラックジョークを聞かされていました。



つまり。この工藤の決断はかなりの危険と犠牲を伴うものだったのです。





...なんとなく。私たちがイメージする戦争中の軍人のイメージとかけ離れているような気がします。


ただこれは当時の海軍の訓示、また工藤の人柄によるものも大きかったようです。



当時の海軍のエリートである海軍兵学校。工藤が入学した時の校長が鈴木貫太郎。後の第42代内閣総理大臣です。この鈴木の教えこそ武士道精神に基づくものでした。「士官たるもの紳士であれ」のモットーの元、鉄拳制裁を禁じ、学問だけでなく哲学や芸術などの文化的要素も養いました。


この教えを受けた工藤を含む51期生たちが当時の海軍の中核をなしていました。その教えは海軍に行き渡っていたようです。事実、工藤が救助を行った際に僚艦の「いなづま」と「ゆきかぜ」も、それぞれ連合国側の兵士370名、40名を救助しています。



また工藤自身の人柄もまさに武士道を体現するものでした。身長180センチの95キロで、柔道有段者。ただ性格は周囲から「大仏」と呼ばれるほど温厚で人情味溢れる人物でした。工藤のエピソードは実は多々あるのですがそのいくつかを...


・雷の着任時に「本日より本艦は私的制裁を禁止する。特に鉄拳制裁は厳禁する」と兵学校時代の精神をここでも表していました。また、日頃から士官、下士官に対し、「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱ってはならない」と口癖のように言っていたといいます。見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違って報告した時も「その注意力は立派だ」と逆に誉めたそう。


海軍艦船では士官食堂と兵員食堂とでは食事の内容がかなり違っていました。もともとサンマ、イワシなどの光り物が好きな工藤中佐は、士官食堂で出たエビや肉料理を皿ごと持って、草履をパタパタさせながら兵員食堂にやってきて「おーい、誰か交換せんか」と言ったというのです。艦長といったら水兵たちにとっては雲の上の存在であったので、このような型破りの行為は他の艦船ではありえない話でした。


兵の家庭が困窮している事情を耳にすると、下士官に命じて、その兵が家庭に送る送金袋にそうっと、自分の俸給の一部を差し入れたという。



このように工藤は人を引きつける魅力的な人物でした。事実、戦争末期の殺伐とした状況の中でも工藤の周りだけはファミリー的な雰囲気が漂っていたそうです。



でもこれだけ聞くと、ただ温厚な人物だったように聞こえますが...。海軍のエリートらしく戦闘指揮能力も凄まじいものがありました。雷は工藤が着任中、敵潜水艦から5回の雷撃(魚雷ミサイルによる攻撃)を受けていますが、全て回避。またその内3回は反撃して相手を撃沈させています。


じゃあこの雷がすごい性能があったかというと...そうではありません。工藤は後に体調を崩し雷を降りることになるのですが、その少し後に雷は戦闘で攻撃を受け沈没してしまっているのです。



まさに、能力に長け、勇気を持ち、温厚で弱きを助ける。武士道の精神を体現した人物だったのではないでしょうか。


それは雷の乗組員にも影響を与えていました。イギリス兵の救出は、一兵士から見ても危険な事とはすぐわかりました。それでも全乗組員が共通して工藤の意識通りに動いていました。


救出時にも兵士たちはイギリス兵に必死で声を掛け、自ら海に飛び込み救助する者もいました。まさに工藤の精神が兵士たちに伝播していったと言えます。




さて。ここで疑問なのが。

これだけの話がなぜ今あまり知られていなかったのでしょうか?



それは恐らく。戦時中に敵兵を助けるなどけしからん!という軍部の考え。または戦後の日本が悪かったの印象を強くさせるためのプロパガンダによるものかと。



それがなぜ近年この事実が明らかにされたのか。それはある英国人の働きによるものでした。


それは、雷に救助された兵士の一人だったサムエル・フォール氏のある投書がきっかけでした。


1998年、英国では日本の天皇陛下の英国訪問に対する反対デモが激化していました。反日運動を憂えたフォール氏は、かつて経験した救出劇の顛末を「タイムズ(4月29日付け)」に投稿しました。この記事が英国人の意識を変え、反日運動は沈静化していったといいます。逆にこの事が日本でも知られてようやく広まっていったのです。


またフォール氏は工藤にお礼を言いたいと行方を探していました。しかし残念ながら工藤は1979年に胃がんにて亡くなっていました。2007年にフォール氏は来日して工藤の墓に訪れています。身内でさえこの工藤の話は知らなかったらしく、フォール氏から話を初めて聞いた甥が「叔父がそんなことを...」と涙したそうです。



工藤の墓に献花するフォール氏







武士道、と聞くと古臭いと感じますか?確かに会社の訓示として「武士道精神を忘れずに...」とあったらヤバい会社かと思われてしまうかもしれませんw





でも。その奥底にある精神は日本人にとって忘れてはならない心なのではないかと思います。





ではまた。




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